「歩いて旅行すること。栗子网
www.lizi.tw泳ぐこと、本を読むこと」
「一人でやることが好きなのね」
「そうですね、そうかもしれませんね」と僕は言った。「他人とやるゲームって昔からそんなに興味が持てないんです。そういうのって何をやってもうまくのりこめないんです。どうでもよくなっちゃうんです」
「じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。私たち冬にはクロスカントリースキーやるのよ。あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バタバタ歩きまわって汗だくになって」とレイコさんは言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検するみたいにじっと自分の右手を眺めた。
「直子はよくあんな風になるんですか」と僕は訊いてみた。
「そうね、ときどきね」とレイコさんは今度は左手を見ながら言った。「ときどきあんな具合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出しているわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中にたまってだんだん固くなっていくの。いろんな感情が固まって、体の中で死んでいくの。そうなるともう大変ね」
「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか」
「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いなさい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになったとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望んでいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなくて、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけないわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではないでしょう」
「そうですね」と僕は言った。
「私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行ったりするのを見てきたのよ」とレイコさんは言った。「たぶんそういうのを沢山見すぎてきたんでしょうね。だからその人を見ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わりに直感的にわかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私にもよくわからないの。あの子がいったいどうなるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとなおってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれないし、だからそれについては私にはあなたに何かアドバイスすることはできないのよ。ただ正直になりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく一般的なことしかね」
「どうして直子に限って見当がつかないんですか」
「たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめがつかないじゃないかしら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好きなのよ、本当に。それからそれとは別にね、あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつれた紐みたいに絡み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なのよ。小说站
www.xsz.twそれをほぐすのに長い時間がかかるかもしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれないしね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ」
彼女はもう一度バスケットボールを手にとって、ぐるぐると手の中でまわしてから地面にバウンドさせた。
「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレイコさんは僕に言った。「これが私のもう一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りこんで絡み合っていても絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしていかなきゃいけないのよ。できるの」
「やってみます」と僕は言った。
「時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかもしれないわよ。あなたそのこと考えてみた」
僕は肯いた。
「待つのは辛いわよ」とレイコさんはボールをバウンドさせながら言った。「とくにあなたくらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の期限も保証もないのよ。あなたにそれができるのそこまで直子のことを愛してる」
「わからないですね」と僕は正直に言った。「僕にも人を愛するというのがどういうことなのか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でお僕はできる限りのことをやって見たいんです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかということもよくわからないんですよ。だからさっきレイコさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわなくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います」
「そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの」
「それもどうしていいかよくわかりませんね」と僕は言った。「いったいどうすればいいんですかずっとマスターペーションしながら待ちつづけるべきなんですか自分でもうまく収拾できないんですよ。そういうのって」
レイコさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかるそういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」
考えてみます、と僕は言った。
「私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど」とレイコさんは言った。「信じる」
「心から信じるよ、もちろん」
「心から信じる」
「心から信じますよ」と僕は笑いながら言った。
「直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。小说站
www.xsz.twその頃は。今ほどしわもなかったしね」
そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。
「でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄目よ。私はそう言われると嬉しいけどね」
「気をつけます」と僕は言った。
彼女はズボンのポケットから財布を取り出し、定期入れのところに入っている写真を出して僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のカラー写真だった。その女の子は派手なスキーウェアを着て足にスキーをつけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。
「なかなか美人でしょう私の娘よ」とレイコさんは言った。「今年はじめにこの写真送ってくれたの。今、小学校の四年生かな」
「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼女は財布をポケットに戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。
「私若いころね、プロのピアニストになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあったし、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。コンクールで優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらドイツに留学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれるしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のときね。わりに大事なコンクールがあって、私ずっとそのための練習してたんだけど、突然左の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく全然動かないのよ。マッサージしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだけど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろんな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経もちゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃないかって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからなかったの。コンクール前のストレスでそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。だからとにかく当分ピアノを離れて暮らしなさいって言われたの」
レイコさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げた。
「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。そのコンクールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピアノにさわらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中にピアノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。一生このまま小指が動かないんじゃないだろうかもしそうなったらこれからいったいどうやって生きていけばいいんだろうそんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるのね。だって仕方ないわよ、それまでの人生でピアノが私の全てだったんだもの。私はね四つのときからピアノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたことないし、ピアノが上手いっていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな風にして育ってきた女の子からピアノをとってごらんなさいよ、いったい何が残るそれでボンッよ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっちゃって」
彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。
「それでコンサートピアニストになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院して。病院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなんとか卒業することはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、エネルギーの玉のようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピアニストになるには神経が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をとって教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生そのものがそこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちばん良い部分が二十年ちょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると思わない私はあらゆる可能性を手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほやしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供にバイエルだのソナチネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。悔しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのコンクールで二位とっただの、どこのホールでリサイタル開いただの、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てくるの。
両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわかるのよ、この人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたのに、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう気持ってね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでまたボンッよ。ネジが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のときでね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高い塀があって門の閉っているところよ。汚くて。ピアノもなくて私、そのときはもうどうしていいかわかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂いで頑張ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。そんな風にしてしわが少しずつ増えてったわけよ」
レイコさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。
「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、航空機を作る会社につとめるエンジニアで、私のピアノの生徒だったの。良い人よ。口数が少ないけれど、誠実で心のあたたかい人で。彼が半年くらいレッスンをつづけたあとで、突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッスンが終ってお茶飲んでるときに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言ったの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があってあなたと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞きたがったから、私は全部正直に説明したわ。二回頭がおかしくなって入院したことがあるんだって。細かいところまできちんと話したわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先だってまた同じようなことが起るかもしれないってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからどうぞゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってきてやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人でおつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点で二人でもう一度話しあいましょうって。
三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をして。それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻ってきたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れられたの。ピアニストになれなくったって、精神病で入院したことがあったって、そんなことで人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱい詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、私は彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって言ったの。もし私と寝たいのなら寝ていいわよって私は言ったの。私、まだ誰とも寝たことないけれど、あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私のトラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことなのよ。それでもかまわないのって。
構わないって彼は言ったわ。僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、君と結婚したいんだ、君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人なのよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚したのはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あることがわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するのも無理ないと思うけれどね。だから私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届けだして、箱根に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう」
レイコさんはため息をついて、またバスケットボールを持ちあげた。
「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだ
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