彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。台湾小说网
www.192.tw組曲の中の何かだ。ロウソクの灯を眺め、ワインを飲みながらレイコさんの弾くバッハに耳を傾けていると、知らず知らずのうちに気持ちが安らいできた。バッハが終ると、直子はレイコさんにビートルスのものを弾いてほしいと頼んだ。
「リクエストタイム」とレイコさんは片目を細めて僕に言った。「直子が来てから私は来る日も来る日もビートルスのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のように」
彼女はそう言いながらミシェルをとても上手く弾いた。
「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくちのみ、煙草を吸った。
それから彼女はノーホエアマンを弾き、ジェリアを弾いた。ときどきギターを弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。
「ノルウェイの森を弾いて」と直子は言った。
レイコさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を出してそこに入れた。
「なんですか、それ」と僕は訊いた。
「私がノルウェイの森をリクエストするときはここに百円入れるのがきまりなの」と直子が言った。「この曲はいちばん好きだから、とくにそうしてるの。心してリクエストするの」
「そしてそれが私の煙草代になるわけね」
レイコさんは指をよくほぐしてからノルウェイの森を弾いた。彼女の弾く曲には心がこもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポッケトから百円玉を出して貯金箱に入れた。
「ありがとう」とレイコさんは言ってにっこり笑った。
「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリクエストしない限り、彼女はこの曲を弾かないの」
「なんだかカサブランカみたいな話よね」とレイコさんは笑って言った。
そのあとでレイコさんはボサノヴァを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそうに揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟した女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ――はずっとうしろの方に退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美しさは僕の心を打った。そしてたった半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったもののことを考える残念だなという気がしないでもなかった。小说站
www.xsz.twあの思春期の少女独特の、それ自体がどんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二度と戻ってはこないのだ。
直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のストのことを話し、それから永沢さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙な人間性と独自の思考システムと偏ったモラリティーについて正確に説明するのは至難の業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合っている唯一の男はこういうユニークな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレイコさんはギターを抱えて、もう一度さっきのフーガの練習をしていた。彼女はあいかわらずちょっとしたあいまを見つけてはワインを飲んだり煙草をふかしたりしていた。
「不思議な人みたいね」と直子は言った。
「不思議な男だよ」と僕は言った。
「でもその人のこと好きなのね」
「よくわからないね」と僕は言った。「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。あの人は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそんなのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻化しのない人だし、非常にストイックな人だね」
「そんなに沢山女性と寝てストイックっていうのも変な話ね」と直子は笑って言った。「何人と寝たんだって」
「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」と僕は言った。「でも彼の場合相手の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まっていくわけだし、それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ」
「それがストイックなの」と直子が訊ねた。
「彼にとってはね」
直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。「その人、私よりずっと頭がおかしいと思うわ」と彼女は言った。
「僕もそう思う」と僕は言った。「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れてきてみなよ、二日で出ていっちゃうね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう全部わかったってさ。そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」
「きっと私、頭悪いのね」と直子は言った。「ここのことまだよくわかんないもの。私自身のことがまだよくわかんないように」
「頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱいある。それは普通の人だもの」
直子は両脚をソファーの上にので、折りまげてその上に顎をのせた。「ねえ、ワタナベ君のことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。
「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」と僕は言った。栗子小说 m.lizi.tw
「ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあなたの大好きなスコットフィッツジェラルドじゃなかったかしらあの本、私あなたに借りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。
「たしかに」と僕は認めた。「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなくてさ、本当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないものがみつけられるかい」
「あたりまえでしょう」と直子はあきれたように言った。「あななそんなこともわからないのそうじゃなければどうして私があなたと寝たのよお酒に酔払って誰でもいいから寝ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの」
「いや、もちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。
直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいのかわからなくてワインを飲んだ。
「ワタナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの」と直子がふと思いついたように小さな声で訊いた。
「八人か九人」と僕は正直に答えた。
レイコさんが練習を止めてギターをはたと膝の上に落とした。「あなたまだ二十歳になってないでしょういったいどういう生活してんのよ、それ」
直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレイコさんに最初の女の子と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかったのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝ることになった事情も話した。「いいわけするんじゃないけど、辛かったんだよ」と僕は直子に言った。「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのがキズキのことだけだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝たんだと思う」
直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。「ねえ、あなたあのときどうしてキズキ君と寝なかったのかと訊いたわよねまだそのこと知りたい」
「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。
「私もそう思うわ」と直子は言った。「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれからも生きていかなきゃならないんだもの」
僕は肯いた。レイコさんはむずかしいパーセージを何度も何度もくりかえして練習していた。
「私、キズキ君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはずし、髪を下ろした。そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでいた。「もちろん彼は私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。できなかったわ。どうしてできないのか私には全然わかんなかったし、今でもわかんないわ。だって私はキズキ君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわっていたわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思ってたのよ。でも、できなかったの」
直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。
「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。「開かなかったの、まるで。だからすごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やってもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっとキズキ君のを指とか唇とかでやってあげてたのわかるでしょう」
僕は黙って肯いた。
直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているように見えた。「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワタナベ君。できることならこういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕方ないのよ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと寝たとき私すごく濡れてたでしょうそうでしょう」
「うん」と僕は言った。
「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてずっとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほしいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうしてどうしてそんなことが起こるのだって私、キズキ君のこと本当に愛してたのよ」
「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ」
「ごめんなさい」と直子は言った。「あなたを傷つけたくないんだけど、でもこれだけはわかって。私とキズキ君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな風に育ったの。初めてキスしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だったの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいのか私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのかというのも」
彼女はテーブルの上のワイングラスをとろうとしたが、うまくとれずにワイングラスは床に落ちてころころと転がった。ワインがカーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめてグラスを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう少しワインが飲みたいかと僕は直子に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく泣いた。レイコさんがギターを置いてやってきて、直子の背中に手をあててやさしく撫でた。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のように頭をレイコさんの胸に押しつけた。
「ね、ワタナベ君」とレイコさんが僕に言った。「悪いけれど二十分くらいそのへんをぶらぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」
僕は肯いて立ち上がり、シャツの上にセーターを着た。「すみません」と僕はレイコさんに言った。
「いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。帰ってくるころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じた。
僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじっと僕が立ち去るのを待っているような、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。
雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでいる棟の方を眺めた。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さな光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さな光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなものを連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕はジェイギャツビイが対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、その仄かな揺れる灯を長いあいだ見つめていた。
僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレイコさんがギターを練習しているのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドアをノックした。部屋に入ると直子の姿はなく、レイコさんがカーペットの上に座って一人でギターを弾いているだけだった。彼女は僕に指で寝室のドアの方を示した。直子は中にいる、ということらしかった。それからレイコさんはギターを床に置いてソファーに座り、となりに座るように僕に言った。そして瓶に残っていたワインをふたつのグラスに分けた。
「彼女は大丈夫よ」とレイコさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。「しばらく一人で横になってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ねえ、そのあいだ私と二人で少し外を散歩しない」
「いいですよ」と僕は言った。
僕とレイコさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニスコートとバスケットボールコートのあるところまで来て、そこのベンチに腰を下ろした。彼女はベンチの下からオレンジ色のバスケットのボールをとりだして、しばらく手の中でくるくるとまわしていた。そして僕にテニスはできるかと訊いた。とても下手だけれどできないことはないと僕は答えた。
「バスケットボールは」
「それほど得意じゃないですね」
「じゃああなたいったい何が得意なの」とレイコさんは目の横のしわを寄せるようにして笑って言った。「女の子と寝る以外に」
「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は少し傷ついて言った。
「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなのどんなことが得意なの」
「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」
「どんなこと好き」
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