たレンタルルームに行き、夜まで時間を潰すこと。小说站
www.xsz.twその部屋は石神の手によって、夜中のうちに富樫慎二の痕跡は消されていたはずだ。部屋に残るのは、その男の指紋や毛髪だけだ。夜になると彼は石神から与えられた服を着て、指示された場所に行った」
「篠崎駅か」
草薙の問いに、湯川は首を振った。
「違う。おそらく、その一つ手前の瑞江駅だ」
「瑞江駅」
「石神は篠崎駅で自転車を盗み、瑞江駅でその男と落ち合ったのだと思う。その際石神は、もう一台自転車を用意していた可能性が高い。二人で旧江戸川の堤防まで移動した後、石神は相手の男を殺害した。顔を潰したのは、もちろん富樫慎二でないことを隠すためだ。しかしじつは指紋を焼く必要はなかった。レンタルルームには殺された男の指紋が残っているはずだから、そのままでも警察が死体の身元を富樫慎二と誤認しただろうからね。だけど顔を潰す以上、指紋も消しておかないと犯人の行動として一貫性がない。そこでやむをえず指紋を焼いたんだ。ところがそうなると、警察が身元の確認に手間取るおそれがある。だから自転車のほうに指紋を残したんだ。衣類を中途半端に燃え残したのも同様の理由からだ」
「しかしそれなら自転車が新品である必要はないんじゃないか」
「新品同様の自転車を盗んだのは、万一のことを考えたからだ」
「万一のこと」
「石神にとって重要なことは、警察が犯行時刻を正確に割り出してくれることだった。結果的に解剖によって比較的正確に推定できたようだが、死体の発見が遅れるなどして、犯行時刻に幅をもたせられることを最も恐れたんだ。極端な場合、前日の夜、つまり九日の夜まで広げられたら彼等にとって極めてまずいことになる。その夜は実際に花岡母娘が富樫を殺した日だから、彼女たちにアリバイはない。それを防ぐため、少なくとも自転車が盗まれたのは十日以後だという証拠がほしかった。そこであの自転車だ。丸一日以上放置されているおそれの少ない自転車、盗まれた場合に持ち主が盗難日を把握していそうな自転車、となると新品同様の自転車ということになる」
「あの自転車にはいろいろな意味があったということか」草薙は自分の額を拳で叩いた。
「発見された時、両輪がパンクさせられていたという話だったね。それも石神らしい配慮だ。おそらく、誰かに乗り逃げされるのを防ぐためだろう。彼は花岡母娘のアリバイを生かすために細心の注意を払ったんだよ」
「だけど彼女たちのアリバイはそれほど確実なものではなかったぞ。映画館にいたという決定的な証拠は、今も見つかっていない」
「だけど、いなかった、という証拠も君たちは見つけられずにいるだろ」湯川は草薙を指差した。「崩せそうで崩れないアリバイ。これこそが石神が仕掛けた罠だった。もし鉄壁のアリバイを用意していたなら、警察は何らかのトリックが使われた可能性を疑う。その過程で、もしかしたら被害者が富樫慎二ではないのではないか、という発想が出てくるかもしれない。石神はそれを恐れた。殺されたのは富樫慎二、怪しいのは花岡靖子、そういう構図を作り上げ、警察がその固定観念から離れられないようにしたんだ」
草薙は唸った。湯川のいうとおりだった。死体の身元が富樫慎二らしいと判明した後、すぐに花岡靖子に疑いの目を向けた。彼女の主張するアリバイに、中途半端な点があったからだ。警察は彼女を疑い続けた。小说站
www.xsz.twだが彼女を疑うということは、即ち、死体が富樫であることを疑わない、ということになる。
恐ろしい男だ、と草薙は呟いた。同感だよ、と湯川もいった。
「僕がこの恐るべきトリックに気づいたのには、君の話がヒントになっている」
「俺の」
「石神が数学の試験問題を作る時のセオリーというのがあっただろ。思い込みによる盲点をつく、という話だ。幾何の問題に見せかけて、じつは関数の問題、というやつだ」
「あれがどうかしたのか」
「同じパターンなんだよ。アリバイトリックに見せかけて、じつは死体の身元を隠すという部分にトリックが仕掛けられていた」
あっと草薙は声を漏らした。
「あの後、君に石神の勤怠表を見せてもらったことを覚えているかい。あれによると、彼は三月十日の午前中、学校を休んでいた。事件とは関係がないと思って、君は重視していなかったようだが、あれを見て僕は気づいたんだ。石神が隠したい最も大きな出来事は、その前夜に起きたのだとね」
隠したい最も大きな出来事――それが花岡靖子による富樫慎二殺しというわけだ。
湯川の話は何から何まで辻褄が合っていた。考えてみれば彼がこだわった自転車盗難や衣類の燃え残りは、すべて事件の真相に大きく関わっていたのだ。自分たち警察は石神の仕掛けた迷路にとらわれていた、と草薙は認めざるをえなかった。
だが、非現実的、という印象は変わらなかった。一つの殺人を隠すためにもう一つ別の殺人を行う――そんなことを考える人間がいるだろうか。誰も考えないからこそトリックなのだといわれればそれまでだが。
「このトリックには、もう一つ大きな意味がある」湯川は草薙の心情を見抜いたようにいった。
「それは、万一真相が見破られそうになったら自らが身代わりになって自首する、という石神の決意を揺るぎのないものにするということだ。単に身代わりになるだけなら、いざとなれば決心がぐらつく恐れがある。刑事の執拗な尋問に耐えかねて、真実を吐露することもありうる。だけど、今の彼にはそんな不安定さはないだろう。誰にどう攻められても、彼の決意が揺らぐことはない。自分が殺したのだと主張し続けるだろう。当然だ。旧江戸川で見つかった被害者を殺したのは、彼に間違いないのだからね。彼は殺人犯であり、刑務所に入れられて当然のことをしたんだ。その代わりに彼は完璧に守れる。心から愛した人のことをね」
「石神はトリックが見破られそうだと悟ったのか」
「僕が彼に告げたんだよ。トリックを見破ったと。もちろん、彼にだけわかる言い方をした。さっき君にもいった台詞だ。この世に無駄な歯車なんかないし、その使い道を決められるのは歯車自身だけだ。歯車が何を指しているのかは、今の君ならわかるだろ」
「石神にパズルのピースとして使われた、名無しの権兵衛さんか」
「彼のしたことは許されることじゃない。自首して当然だ。僕が歯車の話をしたのも、それを促すためだった。だけどああいう形で自首するとは思わなかった。自分をストーカーに貶おとしめてまで彼女を庇うとは。トリックのもう一つの意味に気づいたのは、そのことを知った時だった」
「富樫慎二の死体はどこにある」
「それはわからない。石神が処分したんだろう。すでにどこかの県警で発見されているかもしれないし、まだ見つかっていないかもしれない」
「県警 うちの管内ではないということか」
「警視庁管内は避けるはずだ。栗子小说 m.lizi.tw富樫慎二殺害事件と関連づけられたくないだろうから」
「だから図書館で新聞を調べていたのか。身元不明死体が見つかっていないかどうか、確認したんだな」
「僕が調べたかぎりでは、該当する死体は見つかっていないようだ。でもいずれ見つかるだろう。そんな凝こった隠し方はしていないはずだ。仮に見つかったところで、その死体が富樫慎二だと判断される心配はないからね」
早速調べてみよう、と草薙はいった。すると湯川は首を振った。それは困る、約束が違う、というのだった。
「最初にいっただろう。僕は友人としての君に話したわけで、刑事に話したんじゃない。この話に基づいて君が捜査を行うというのなら、今後、友人関係は解消させてもらう」
湯川の目は真剣だった。反論できる気配すら感じさせなかった。
「僕は、彼女に賭けてみようと思う」湯川はそういってべんてん亭を指した。「彼女はたぶん真実を知らない。石神がどれだけの犠牲を払ったかを知らない。それを話してみようと思う。そのうえで彼女の判断を待ちたい。石神は、彼女が何も知らないで、幸せを掴んでくれることを望んでいるだろう。だけど、そんなことは僕には耐えられない。彼女は知っておくべきだと思う」
「話を聞けば、彼女は自首するというのか」
「わからない。僕自身、彼女は自首すべきだと強く思っているわけじゃない。石神のことを思うと、せめて彼女だけでも救ってやりたいような気もする」
「もしいつまで経っても花岡靖子が自首してこないのなら、俺は捜査を始めるしかない。たとえおまえとの友人関係を壊してでも」
「そうだろうな」湯川は頷いた。
花岡靖子に話している友人を眺めながら、草薙はたて続けに煙草を吸った。靖子は項垂れたままで、先程から殆ど姿勢を変えていない。湯川も唇が動いているだけで、表情に変化はなかった。だが二人を囲む空気の緊張感は、草薙のところまで伝わってきた。
湯川が立ち上がった。靖子に向かって一礼した後、草薙のいるほうに歩きだした。靖子はまだ同じ姿勢だった。動けないように見えた。
「待たせたな」湯川はいった。
「話は済んだのか」
「うん、済んだ」
「彼女はどうすると」
「さあね。僕は話しただけだ。どうするのか訊かなかったし、どうすべきだと進言することもなかった。すべては彼女が決めることだ」
「さっきもいったことだが、もし彼女が自首しなければ――」
「わかっている」湯川は制するように手を出し、歩き始めた。「それ以上いわなくていい。それより君に頼みたいことがある」
「石神に会いたいんだろ」
草薙がいうと、湯川は目を少し大きくした。
「よくわかったな」
「わかるさ。何年付き合ってると思ってる」
「以心伝心かい。まあ、今のところはまだ友人だからな」そういうと湯川は寂しそうに笑った。
19
ベンチに座ったまま、靖子は動けずにいた。あの物理学者の話が彼女の全身にのしかかっていた。その内容は衝撃的で、何より重かった。その重さに、彼女の心は押し潰されそうだった。
あの人がそこまで――隣に住む数学教師のことを考えた。
富樫の死体をどう処理したのか、靖子は石神から何も聞かされていない。そんなことは考えなくていいと彼はいったのだ。全部自分がうまく処理したから何も心配しなくていい、電話の向こうから淡々とした口調で語りかけてきたのを靖子は覚えている。
不思議ではあった。警察はなぜ犯行の翌日のアリバイを訊くんだろう、と。それ以前に石神には、三月十日の夜の行動を指示されていた。映画館、ラーメン屋、カラオケボックス、そして深夜の電話。いずれも彼の指示に基づいたものだが、その意味がわからなかった。刑事からアリバイを尋ねられた時、ありのままを答えながらも、本当は逆に問いたかった。なぜ三月十日なのですか。
すべてがわかった。警察の不可解な捜査は、すべて石神の仕掛けによるものだったのだ。だがその仕掛けの内容はあまりにすさまじい。湯川から聞かされ、たしかにそれ以外には考えられないと思いながらも、まだ信じられないでいる。いや信じたくない。石神がそこまでやったとは思いたくない。自分のような何の取り柄もなく、平凡で、大して魅力的とも思えない中年女のために、一生を棒に振るようなことをしたとは考えたくなかった。それを受け入れられるほど自分の心は強くないと靖子は思った。
彼女は顔を覆っていた。何も考えたくなかった。湯川は警察には話さないといった。すべては推論で証拠は何もないから、あなたがこれからの道を選べばいいといった。何という残酷な選択を迫るのだと恨めしかった。
これからどうしていいかわからず、立ち上がる気力さえなく、石のように身体を丸めていると、不意に肩を叩かれた。彼女はぎくりとして顔を上げた。
そばに誰か立っていた。見上げると、工藤が心配そうに彼女を見下ろしていた。
「どうしたんだ」
なぜここに工藤がいるのか、すぐにはわからなかった。彼の顔を見ているうちに、会う約束をしていたことを思い出した。待ち合わせの場所に現れないので、心配して探しにきたのだろう。
「ごめんなさい。ちょっと疲れて」それ以外、言い訳が思いつかなかった。それに実際ひどく疲れていた。もちろん身体が、ではなく、精神が、だ。
「具合が悪いのかい」工藤が優しく声をかけてくる。
だがその優しい響きも、今の靖子にはひどく間の抜けたものにしか聞こえなかった。真実を知らないということは、時には罪悪でもあるのだと思い知った。少し前までの自分もそうだったのだと思った。
大丈夫、といって靖子は立ち上がろうとした。少しよろけると、工藤が手をさしのべてきた。ありがとう、と彼女は礼をいった。
「何かあったの 顔色がよくないみたいだけど」
靖子はかぶりを振った。事情を説明できる相手ではない。そんな人間はこの世にいない。
「何でもないの。ちょっと気分が悪くなったから休んでただけ。もう平気よ」声を張ろうとしたが、とてもそんな気力は出なかった。
「すぐそこに車を止めてある。少し休んでから行こうか」
工藤の言葉に、靖子は彼の顔を見返した。「行くって」
「レストランを予約してあるんだ。七時からといってあるけど、三十分ぐらいなら遅れても構わない」
「ああ」
レストランという言葉も、異次元のもののように聞こえた。これからそんなところで食事をしろというのか。こんな気持ちを抱えたまま、作り笑いを浮かべ、上品なしぐさでフォークとナイフを使えというのか。だが無論、工藤には何の責任もない。
ごめんなさい、と靖子は呟いた。
「どうしてもそういう気分になれないの。食事するなら、もっと体調のいい時のほうがいいわ。今日はちょっと、何というか‥‥‥」
「わかった」工藤は彼女を制するように手を出した。
「どうやらそのほうがよさそうだ。いろいろあったから、疲れても当然だ。今日はゆっくり休んだらいい。考えてみれば、落ち着かない日が続きすぎた。少し、のんびりさせてやるべきだった。僕が気が利かなかったよ。申し訳ない」
素直に謝る工藤を見て、この人もいい人なのだと改めて靖子は思った。心底自分のことを大切に思っている。こんなにも愛してくれる人がたくさんいるのに、なぜ自分は幸せになれないのかと虚しかった。
彼に背中を押されるようにして歩きだした。工藤の車は数十メートル離れた路上に止めてあった。送っていく、と彼はいってくれた。断るべきだと思ったが、靖子は甘えた。家までの道のりは、途方もなく遠く感じられた。
「本当に大丈夫 何かあったんなら、隠さないで話してほしいんだけどな」車に乗り込んでから工藤は再び訊いてきた。今の靖子を見ていれば、気になって当然かもしれなかった。
「うん、大丈夫。ごめんね」靖子は彼に笑いかけた。精一杯の演技だった。
あらゆる意味で申し訳ない気持ちでいっぱいだった。その気持ちが、あることを彼女に思い出させた。工藤が今日会いたいといってきた理由だ。
「工藤さん、何か重要な話があるっていってなかった」
「うん、まあ、そうなんだけどね」彼は目を伏せた。「今日はやめておくよ」
「そう」
「うん」彼はエンジンをかけた。
工藤の運転する車に揺られながら、靖子は外をぼんやりと眺めた。日はすっかり暮れ、街は夜の顔に変わりつつある。このまますべてが闇になり、世界が終わってしまったらどれほど楽だろうかと思った。
アパートの前で彼は車を止めた。
「ゆっくり休むといい。また連絡する」
うん、と頷いて靖子はドアのレバーに手をかけた。すると工藤が、「ちょっと待って」といった。
靖子が振り向くと、彼は唇を舐め、ハンドルをぽんぽんと叩いた。それからスーツのポケットに手を入れた。
「やっぱり、今話しておくよ」
「何」
工藤はポケットから小さなケースを取り出した。何のケースかは一目でわかった。
「こういうのって、テレビドラマなんかでよく見るからあまりやりたくはないんだけど、まあ、形式の一つかなと思ってね」そういって彼は靖子の前でケースを開いた。指輪だった。大きなダイヤが細かい光を放っていた。
「工藤さん」愕然として靖子は工藤の顔を見つめた。
「今すぐでなくてもいいんだ」彼はいった。「美里ちゃんの気持ちも考えなきゃいけないし、もちろんその前に君自身の気持ちも大切だ。でも、僕がいい加減な気持ちでいるわけでないことはわかってほしい。君たち二人を幸せにする自信が、今の僕にはある」彼は靖子の手を取り、そこにケースを載せた。「受け取ったからといって負担に思うことはない。これは単なるプレゼントだ。でももし、君が僕とこの先一緒に暮らしていく決心がついたなら、この指輪は意味を持つことになる。考えてみてくれないか」
小さなケースの重みを掌に感じながら、靖子は途方
...