方向転換を迫られていた。台湾小说网
www.192.tw彼は学生時代に取得していた教員資格を生活の糧とする道を選んだ。同時に、数学者として身を立てる道を諦めた。
そんな話を湯川にしたところで仕方がないと思った。研究者としての道を断念せざるをえなくなった人間には、大体似たような事情がある。自分の場合もさほど珍しいことではないと石神は理解していた。
寿司と刺身が届いたので、それを食べながらさらに酒を飲んだ。湯川の持参した酒が空になったので、石神はウイスキーを出した。めったに飲まないが、数学の難問を解いた後など、頭の疲労を取るためにちびちびと舐めるのが好きだった。
話が弾むというほどではなかったが、学生時代の思い出を絡めながら数学のことを語るのは楽しかった。ずいぶん長い間、こういう時間を失っていたことに、石神は改めて気づいた。大学を出て以来、初めてかもしれなかった。この男以外に自分を理解してくれる者はおらず、また自分が対等の人間として認められる者もいなかったのかもしれない、と湯川を見ながら石神は思った。
「そうだ、大事なことを忘れていた」湯川が不意にそういって、紙袋の中から大判の茶封筒を出してきた。それを石神の前に置いた。
「なんだ、これ」
「まあ、中を見てくれ」湯川はにやにやしていた。
封筒の中にはa4のレポート用紙が入っており、そこには数式がびっしりと書き込まれていた。一枚目にさっと目を通し、それが何であるかを石神は悟った。
「リーマン予想の反証を試みているわけか」
「一目で見抜いたな」
リーマン予想とは、現在の数学で最も有名だといわれている難問だ。数学者リーマンが立てた仮説が正しいことを証明すればいいのだが、未だ誰も成し遂げていない。
湯川が出してきたレポートの内容は、仮説が正しくないことを証明しようとしているものだった。そういった取り組みをしている学者が世界中にいることを石神は知っていた。もちろん、その反証に成功した者もまだいない。
「数学科の教授にコピーさせてもらってきた。まだどこにも発表されていない。反証には至っていないが、いいセンまでいっているようには思う」湯川はいった。
「リーマンの仮説は間違っているというのか」
「いいセンまでいってるといっただけだ。仮説が正しいなら、その論文のどこかにミスがあることになる」
悪戯小僧が悪巧みの首尾を確認するような目を湯川はした。それを見て石神は彼の狙いを察知した。彼は挑発しているのだ。同時に、「ダルマの石神」がどこまで衰えたかを見極めようとしているのだ。
「ちょっと見せてもらっていいか」
「そのために持ってきた」
石神は論文を目にした。やがて彼は腰を上げ、机に向かった。横に新しいレポート用紙を広げ、ボールペンを手にした。
「pnp問題というのは当然知っているよな」湯川が後ろから声をかけてきた。
石神は振り返った。
「数学の問題に対し、自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確認するのとでは、どちらが簡単か。あるいはその難しさの度合いはどの程度か――クレイ数学研究所が賞金をかけて出している問題の一つだ」
「さすがだな」湯川は笑ってグラスを傾けた。
石神は机に向き直った。
数学は宝探しに似ている、と彼は思っている。まずどのポイントを攻めればいいかを見極め、解答に辿り着くまでの発掘ルートを考案するのだ。台湾小说网
www.192.twそのプラン通りに数式を組み立てていき、手がかりを得ていく。何も得られなければ、ルートを変更しなければならない。そうしたことを地道に、気長に、しかし大胆に行うことによって、誰も見つけられなかった宝すなわち正解に行き着けるのだ。
そうした喩たとえを使うなら、他人の解法を検証するというのは、単に発掘ルートをなぞるだけで簡単なことのように思える。しかし実際はそうではなかった。間違ったルートを進み、偽の宝物に辿り着いている結果について、その宝が偽物だと証明するのは、時に本物を探すよりも難しい場合がある。だからこそpnp問題などという途方もない問題が提示されているのだ。
石神は時間を忘れた。闘争心と探求心、さらには誇りが彼を興奮させていた。彼の目は数式から一時も離れることがなく、脳細胞はそれらを操ることのみに使われた。
突然石神は立ち上がった。レポートを手にし、後ろを振り向いた。湯川はコートをかぶり、身体を丸めて眠っていた。その肩を揺すった。
「起きてくれ、わかったぞ」
湯川は寝ぼけ眼でゆっくりと身体を起こした。顔をこすり、石神を見上げた。
「何だって」
「わかったんだよ。残念ながら、この反証には間違いがある。面白い試みだが、素数の分布について根本的な誤りがあって――」
「ちょっと待った。待ってくれ」湯川が石神の顔の前に手を出してきた。「寝起きの頭で君の難解な説明を聞いたって、わかるわけがない。いや、頭が冴えてる時でも無理だ。白状すると、リーマン予想なんて僕にはお手上げなんだよ。君が面白がると思って、持ってきただけだ」
「いいセンいってるとかいったじゃないか」
「数学科の教授の受け売りだ。じつは反証にミスがあることはわかっていて、それで発表されなかったんだ」
「じゃあ、俺がミスに気づいても当然ということか」石神は落胆した。
「いや、すごいと思うよ。少々出来のいい数学者でも、即座にはミスに気づかないだろうとその教授はいっていた」湯川は腕時計を見た。「君はたったの六時間で見抜いた。見事だと思う」
「六時間」石神は窓を見た。外はすでに白み始めていた。目覚まし時計を見ると、五時近くになっている。
「相変わらずだな。安心したよ」湯川がいった。「ダルマの石神は健在だ。後ろ姿を見ながらそう思った」
「すまん。湯川がいることを忘れていた」
「構わんさ。それより君も少し眠ったほうがいい。今日も学校だろ」
「そうだな。でも興奮して眠れそうにない。こんなに集中したのは久しぶりだ。ありがとう」石神は手を差し出した。
「来てよかった」そういって湯川は握手してきた。
七時まで少し眠った。頭が疲労していたのか、精神的充足感が大きかったのか、その短い間に石神は熟睡した。目覚めた時にはいつもより頭がすっきりしていた。
石神が支度をしていると湯川がいった。「お隣さん、早いんだな」
「お隣さんって」
「さっき、出かける物音がした。六時半を少し過ぎた頃かな」
湯川は起きていたらしい。
何かいったほうがいいだろうかと石神が考えていると、続けて湯川がいった。
「さっき話した刑事の草薙という男によると、お隣さんは容疑者らしいな。それで君のところにも聞き込みをしたそうだ」
石神は平静を装い、上着を羽織った。栗子网
www.lizi.tw「彼は事件のことを湯川に話すのかい」
「まあ時々はね。油を売りに来るついでに愚痴って帰る、というところかな」
「一体どういう事件なのかな。草薙刑事だっけ、彼は詳しいことを話してくれなかったんだが」
「一人の男が殺された、という事件らしい。その男がお隣さんの別れた亭主だってさ」
「そういうことか」石神は無表情を保った。
「君はお隣とは付き合いがあるのかい」湯川が訊いてきた。
石神は瞬時に考えを巡らせた。口調だけから推測すると、湯川は特に深い意図があって尋ねてきたわけではなさそうだ。だから適当に流すこともできる。しかし彼が刑事と親しいという点に石神はこだわった。こうして再会したことを彼は草薙に話すかもしれない。それを考慮して、ここでは答えなければならない。
「付き合いはないんだが、じつは花岡さん――お隣さんは花岡さんというんだけど、彼女が働いている弁当屋にはちょくちょく行く。このことはうっかりしていて草薙刑事にはいわなかったんだがね」
「ふうん、弁当屋さんか」湯川は頷いた。
「お隣さんが働いている店だから買いに行ってるんじゃなくて、たまたま行った店で彼女が働いていたというだけのことなんだ。学校の近くでね」
「そうか。でもその程度の知り合いでも、容疑者というのはいい気分がしないだろう」
「別に。自分には関係のないことだ」
「それもそうだな」
湯川は特に怪しんでいるふうではなかった。
七時三十分に二人で部屋を出た。湯川は最寄りの森下駅には向かわず、石神と一緒に高校のそばまで行くといった。そのほうが電車の乗り換えが少なくて済むらしい。
湯川は、事件や花岡靖子のことはもう話題にしなかった。先刻は、もしかしたら草薙に頼まれて何かを探りにきたのかと疑ったのだが、どうやら考えすぎらしいと石神は思った。そもそも草薙には、そんな手を使ってまで石神のことを探ろうとする理由はないはずだった。
「なかなか興味深い通勤コースだな」湯川がそんなふうにいったのは、新大橋の下をくぐり、隅田川に沿って歩き始めた時だった。ホームレスの住処が並んでいるからだろう。
白髪混じりの髪を後ろで縛っている男が洗濯物を干していた。その先には石神が缶男と名付けている男が例によって空き缶を潰していた。
「いつもと同じ光景だ」石神はいった。「この一か月間、何も変わっちゃいない。彼等は時計のように正確に生きている」
「人間は時計から解放されるとかえってそうなる」
「同感だ」
清洲橋の手前で階段を上がった。すぐそばにオフィスビルが建っている。一階のガラスドアに映った自分たちの姿を見て、石神は小さく首を振った。
「それにしても湯川はいつまでも若々しいな。俺なんかとは大違いだ。髪もどっさりあるし」
「いやあ、これでもずいぶん衰えた。髪はともかく、頭の働きは鈍くなったと思うよ」
「贅沢なことを」
軽口を叩きながらも石神は少し緊張を覚えていた。このままだと湯川はべんてん亭までついてくるだろう。花岡靖子と自分との関係について、この洞察力に優れた天才物理学者が何か感づきはしないかと少し不安になった。また、石神が見知らぬ男と一緒にやってきたことで、靖子が狼狽を見せないともかざらない。
店の看板が見えてきたところで石神はいった。
「あれがさっき話した弁当屋だ」
「ふうん。べんてん亭か。面白いネーミングだな」
「今日も買っていくよ」
「そうか。じゃあ、僕はここで」湯川は立ち止まった。
意外ではあったが、助かったと石神は思った。
「ろくな持てなしができなくて申し訳なかった」
「最高の持てなしをしてもらったさ」湯川は目を細めた。「もう、大学に戻って研究する気はないのか」
石神はかぶりを振った。
「大学で出来ることは自分一人でも出来る。それに、この歳からじゃあ引き取ってくれる大学はないだろう」
「そんなことはないと思うけど、まあ、無理にとはいわない。これからもがんばってくれ」
「湯川もな」
「会えてよかった」
握手した後、湯川が遠ざかっていくのを石神は見送った。名残惜しかったわけではない。自分がべんてん亭に入っていくところを見られたくなかったからだ。
湯川の姿が完全に消えた後、彼は踵を返し、足早に歩きだした。
7
石神の顔を見て、靖子はなぜか安堵した。彼が穏やかな表情をしていたからだ。昨夜、珍しく彼の部屋に来客があったようで、遅くまで話し声が聞こえていた。もしや刑事ではないのかと気に病んでいた。
「おまかせ弁当を」いつものように抑揚のない声で彼は注文した。そしていつものように靖子の顔を見ようとしない。
「はい、おまかせひとつ。ありがとうございます」応えてから彼女は小声で囁ささやいた。「昨日、どなたかお客さんが」
「あああ」石神は顔を上げ、驚いたように瞬まばたきした。それから周囲を見回し、低い声を出した。「話はしないほうがいいです。刑事がどこで見張ってるかわからない」
「ごめんなさい」靖子は首をすくめた。
弁当が出来上がるまで、二人は無言だった。目も合わせないようにした。
靖子は通りに目を向けるが、誰かが見張っている気配はまるでない。もちろん、もし本当に刑事が張り込んでいたとしても、気づかれないように行動しているに違いなかった。
弁当が出来てきた。彼女はそれを石神に渡した。
「同窓生です」代金を支払いながら彼はぼそりといった。
「えっ」
「大学の同窓生が訪ねてきたんです。お騒がせしてすみませんでした」石神は極力唇を動かさずに語している。
「いえ、そんな」靖子はつい笑顔を浮かべていた。その口元が外から見えないよう、俯いた。
「そうだったんですか。お客さんなんて珍しいなと思って」
「初めてです。私もびっくりしました」
「よかったですね」
「ええ、まあ」石神は弁当の袋を掟げた。「じゃ、また今夜」
電話をかけるということらしい。はい、と靖子は答えた。
石神の丸い背中が通りに出ていくのを見送りながら、世捨て人の雰囲気のある彼にも訪ねてくる友人がいるのだなと意外に思った。
朝のピーク時が過ぎると、いつものように奥で小代子たちと休憩を取ることにした。小代子は甘いものが好きだ。大福を彼女は出してくれた。辛党の米沢は関心がなさそうな顔をして茶を啜っている。バイトの金子は配達中だ。
「昨日は、あれからもう何もいってこなかった」茶を一口飲んでから小代子が訊いた。
「誰が」
「連中よ。刑事の奴ら」小代子は顔をしかめた。「結構しっこく旦那のことを訊いてきたからさ、夜になって、またあんたのところに行ったんじゃないかって話してたの。ねえ」彼女は米沢に同意を求めた。無口な米沢は小さく頷いただけだ。
「ああ、あの後は何もないけど」
実際には美里が学校のそばで質問を受けたのだが、そのことはいう必要がないだろうと靖子は判断した。
「それならよかった。刑事っていうのは、しつこいっていうからさあ」
「一応話を聞きにきただけだろ」米沢がいった。「靖子ちゃんを疑ってるわけじゃない。連中にも、いろいろと手続きってものがあるんだよ」
「まあ、刑事といったって役人だもんね。だけどこういっちゃ何だけど、富樫さん、うちに来てなくてよかったよね。殺される前にうちに来てたらさ、それこそ靖子が疑われるところだったんじゃない」
「まさか、そんな馬鹿なことあるわけないだろ」米沢が苦笑を浮かべた。
「わかんないわよ。だってさ、富樫さんがまりあんで靖子のことを訊いてたから、ここに来ないはずはないなんていってたじゃない。あれは疑ってる顔だね」
まりあんというのは、靖子や小代子が働いていた錦糸町の店だ。
「そんなこといったって、来てないんだからしょうがないだろ」
「だから、来なくてよかったといってんのよ。富樫さんが一度でも来ててごらんなさいよ、あの刑事はしつこく靖子につきまとったわよ、きっと」
そうかなあ、と米沢は首を捻っている。その顔に、この問題を重視している気配はない。
もし、実際には富樫が来たと二人が知ったら一体どんな顔をするだろう、と靖子はいたたまれない気持ちになった。
「まあ気分はよくないけどさ、少しの辛抱だよ、靖子」小代子が気楽な調子でいう。「別れた亭主が変な死に方をしたんだから、刑事だって来るよ。どうせそのうちに何もいってこなくなるわけだし、そうなったら今度は本当に気楽になれるじゃない。あんた、富樫さんのことを気に病んでたからさ」
それはまあね、と靖子は無理に笑顔を作った。
「あたしはさ、正直いって、富樫さんが殺されてよかったと思ってるんだよね」
「おい」
「いいじゃないの。本音をいってるだけでしょ。あんたはね、靖子があの男のためにどれだけ苦労させられたか知らないのよ」
「おまえだって知らないだろう」
「直接は知らないけど、靖子からいろいろと話は聞かされてるわよ。その男から逃げるためにまりあんで働きだしたんだから。そんなのがまた靖子のことを探してたなんて、ほんと考えただけでぞっとする。どこの誰か知らないけど、殺してくれてありがとうって気分ね」
米沢は呆れたような顔をして立ち上がった。その後ろ姿を不快そうに見送った後、小代子は靖子のほうに顔を寄せてきた。
「でも、一体何があったんだろうね。借金取りにでも追われてたのかな」
「さあ」靖子は首を傾げた。
「まあ、あんたに飛び火しなけりやいいんだけどね。それだけが心配」早口でいった後、小代子は大福の残りを口に入れた。
店頭に戻った後も、靖子の気持ちは重かった。米沢夫妻は何ひとつ疑っていない。むしろ事件によって靖子が被こうむる様々な弊害について心配してくれている。そんな二人を欺あざむいていると思うと心が痛んだ。しかし、もし靖子が逮捕されるようなことになれば、二人にかける迷惑は尋常なものではない。べんてん亭
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